そこらへんの大学生のブログ

iOS開発やったり、海外に住んだり、大学生やったりしてます。

人間のどんな環境にも「慣れる力」は凄まじい

「住めば都」は往々にして正しい

僕がオーストラリアに入国して最初に1週間ほど泊まることになっていたバックパッカー宿の部屋を見た瞬間、僕は猛烈に日本に帰りたくなった。

4人部屋の部屋で床は既に泊まっている人の荷物でめちゃくちゃになっており、トイレは汚くその横にカーテンだけで仕切られたプールで見かけるようなシャワーが取付けられている。

そんな部屋でこれから1週間過ごさなければならないことを考えると、憂鬱でしょうがなかった。

そもそも初めてバックパッカー宿に泊まったのはハリウッド旅行に行った時で、割と綺麗好きで自分独りの空間と時間がないと辛い僕にはたった1泊だったがめちゃくちゃ辛かった。

ハリウッドに旅行で来て、あんなに苦しんでいたのは僕くらいだと思う。
あれで完全にバックパッカー宿がトラウマになってしまった。

そして、またあの時と同じような宿に泊まることになっている。
1泊目はトラウマのせいもあって、ハリウッドの時より辛かった。

2泊目もちゃんと辛かった。

しかし、不思議と3日目若干辛くなかった。

そして、4日目スーパーに食事の買い出しに出かけた。買い物が終わってスーパーのベンチに座ってしばらくボーっとスマホをいじった後、「さて、家に帰るか。」と心の中でつぶやいた。

その瞬間、自分があそこを自分の家だと認識し始めていることに驚いた。

そして、5日目6日目ふつーにくつろいでいた。最後の日は忘れないように写真を撮って帰った。


そして、その後すぐに僕はファーム仕事を始めることになる。

そのバックパッカー宿を出発してファームのある更に田舎へ電車に乗って向かう。

駅に到着して案内役のオージーに家に連れていってもらうとそこにはバックパッカー宿以上に劣悪な家があった。

その家には1人のパプアニューギニア人のおばちゃんとオーストラリア人のおじいちゃんが住んでいた。この記事でもちょっと紹介した凄まじいバイタリティのおじいちゃんだ。

www.yashinka-engineer.blog

その家に着いた時の僕の部屋がこれだ。

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何もない部屋の壁にマットレスだけ立てかけられていた。

これから過酷な肉体労働の毎日だと言うのに、それが終わっても帰ってくるのがココなのかと絶望した。
なによりWi-Fiが飛んでいないことが、今まで寝るギリギリまでYouTubeを見る生活をしていた僕にとっては辛すぎる環境だった。

しかも、部屋の入り口の床にはガムテープで低い壁のようなものが作られておりこれは何かと聞くと、こうしておかないとゴキブリが死ぬほどこの部屋に入ってくるらしい。

最初の頃は洗濯機がなく(途中でボスが買ってくれた)仕事終わりにドロドロの服を手洗いしていた。

パプアニューギニア人のおばちゃんは「本当にあんたは大人か?」と思うくらいワガママで子供っぽい人で機嫌が悪いと家でブチギレまくり、酒を飲んでは絡んできた。

そして、1番辛かったのは途中から新たにベトナム人の夫婦が引っ越してきて僕と夫婦の3人があの狭い部屋で暮らしていた時期だ。
2段ベッドとかではなく、床にマットレスを敷いて寝ている。
2段ペッドなら縦の空間を使えるのであの部屋の狭さでも快適に過ごせたと思うが、床に3つマットレスを敷いていたのでぎゅうぎゅうだった。

何度も辞めて日本に帰ってやろうかと思った。
仕事も辛いし、帰っても辛いじゃないか。

ただ結論から言うと、やっぱり慣れた
やっぱ人間すごい。

最初は仕事も家もとにかく辛かったし、バックパッカー宿に比べれば時間はかかったが2週間くらいすれば仕事終わりは部屋でくつろぎまくっていた。
というか仕事中もあの家に早く帰りたいしか考えてなかった。

3ヶ月のファーム生活を終えてメルボルンに飛び立つ日は半泣きで部屋と家の写真を撮りまくった。

それからもメルボルンで6人でルームシェアしたりしたが、引っ越す前も不安はなかった。
だってあんな劣悪な環境でもくつろげた僕なんだから、6人であろうと7人であろうと都会の綺麗なマンションが問題になるはずがない。


あそこでもくつろげたんだから、どんな家でもくつろいでみせると自信を持って言えるほどの劣悪な環境で一時期を過ごすことができ、どんな環境にも最初は黙って耐えることで次第に慣れることを体感できた僕は幸せだったのかもしれない。


ただ一度、ファームの家に住んでいる時に米を炊こうとして、袋を開けると袋の入り口に特大のゴキブリが入っていた時はその米ごと殺虫剤をかけてゴミ箱にすてた後、さすがに帰りの航空券を探していた。
あそこで踏みとどまった自分を褒めたい。

大学で気づいた「全体の中でちゃんとやる人はごく一部だ」ということ

大学で気づいたこの世の不変の真理

大学に入って分かったことは大学生は基本的に真面目に勉強しないということ。

僕もえらそうなことを言えないし、本気で大学の研究に打ち込んでいる人もいることは百も承知だがそれでも大学生の大多数はとにかく適当に生きてると思う。

大学に入るまで、僕は自分のことを結構なダメ人間だと思っていた。

小学校から高校まで朝、遅刻する習慣は治らなかったし、ずっとテストは一夜漬けで生きてきた。
中学まではそれで何とかなったが、高校では全く何ともならず、というか何とかしようという気すら起こらずに赤点を取りまくった挙句に受験勉強は高校三年の10月くらいから始めた。

そんな自他共に認められていた気がするダメ人間の僕だったが、大学に入って完全に逆転した。
なぜか大学の成績は軒並み良かったのだ。

最初は何が起こっているのか分からなかった。

僕のイメージでは大学は受験を勝ち抜いて選ばれし者たちが集う場所であり、自分のレベルよりかなり高い大学を無理に受験して奇跡的に合格し滑り込んだ僕は、入学したは良いものの周りについていけるか、めちゃくちゃ不安だった。

しかし、、、余裕でついていけた。というか成績的には先頭集団を走っていた。

そして、なぜこのようなことが起こっているのか冷静に分析した僕はこの世の真理に辿り着いた。

『相対評価』

うちの大学では評価方法として相対評価が用いられていた。
つまりテストの点数やレポートの出来に明確な足切りや基準値が設けられず、全体の上位何%は成績Aで下何%は成績Dという風な比率で成績がつけられた。

そして、もう1つ重要なことは大学内で行われているどの授業においても全体の数%は確実に出席しなくなる層が存在するということである。

これは相対評価において非常に大きい意味を持つ。

絶対評価では自分以外の周り何人が0点を取ったとしても、何人が来なくなったとしても自分が基準の点を取れなければ成績はDになる。

しかし、相対評価の場合はDが与えられるのが全体の何%か決まっている。
つまり極端に言えば、全く授業に出ずにテストも0点の彼らが一定数いる限り、自分はある程度のことをしていれば成績がDになることはないということだ。

とても意識の低い証明をしてしまっているが、これは相対評価において厳然たる事実だ。

そしてこれは下位だけではなく成績上位にも当てはまる。

授業には出ていたとしても、基本的に真面目にちゃんと取り組んでいる大学生は各クラスに数%しかいない。
マジョリティは出来るだけ労力を抑えて単位をかっさらおうとする層だ。

よって、彼らは出席も単位を落とさないギリギリを狙ったりレポートも提出すればひとまずOK、テストも足切りギリギリを狙うという狡猾な戦法で大学を生き延びようとする。

逆に言えば、ちゃんと出席しちゃんとレポートを作成し、ちゃんとテスト勉強すれば頑張らなくても成績Aに滑り込める。

これに気づいた時、僕は「自分は大丈夫だ、やっていける」という安心感と「僕がすごい訳ではなかったのか、、、」という虚無感を味わった。

基本的に心配性の人は大丈夫というかむしろ強い

大学には思ってるより色んな人がいる。
すごい人もいれば、ひたすら遊び倒したりぶらぶらして留年をかさねるダークサイドの住人たちもいる。

自分のことをダメ人間だと思っていた僕より遥かにレベルの高い(or 低い)ダメ人間も数多く見てきた。

振り返ると個人の偏差値では完全に最下位ランクの僕がなんだかんだ大学で良い成績を取って、やっていけたのは自分が心配性だったからなのかもしれないとたまに考える。

矢沢永吉は

「世の中で大成した人ほど、臆病だと思う。

臆病というのは本当は奥深いものだ。

だって、臆病っていうのは、ある種のレーダーじゃないか。

臆病なやつは、常に怖いから、

次にどうしなきゃいけないか、必死で探る。

探す、調べる、緻密に計算する。」

と語っていた。

これは大学に限らず、人生において言えることだと思う。

本当にやばい人は自分がやばいことに気づかない。
自分が大失敗してから、その状況に気づく。

事前に「自分このままじゃ危ないんじゃないかな。」と臆病になる心がレーダーになり、それを事前に回避しようと行動を起こせる人は強い。

ただあまりにも失敗を恐れて、「失敗しないように、、失敗しないように、、、」という風に無意識のうちに考えてしまいがちなのもいけない。

「慎重もええが、思いきったところがなきゃいかん。

慎重は下僚の美徳じゃ。大胆は大将の美徳じゃ。」

と坂本龍馬は言った。
慎重が美徳になるのは下僚まで。大将になるには大胆さも持ち合わせていなければならない。

大胆と臆病を絶妙なバランスで持ち合わせることが成功の秘訣かもしれない。
チャレンジに付随する失敗は許容しながらも、自分の怠惰や注意不足で起こり得る失敗に関しては常に心配性というレーダーを立てておくことが心構えとしてベストではないだろうか。


あ、ちなみに僕が成績が良かったのはビビりまくってた最初の頃だけで、大学に慣れて調子に乗り始めた僕は勉強しないマジョリティに合流し見事に成績を落としました👍

海外で1からSwift、iOS開発を学び、iOSエンジニアになるまで

iOSエンジニアとしての僕

僕は現在、iOSエンジニアとして都内のスタートアップで働かせてもらっている。
また、そのスタートアップとは別に某メガベンチャーに同じくiOSエンジニアとして内定を頂いており、来年の4月からそこで働き始める。

なんか出来る学生エンジニアっぽいことを書いたが、実際のところ僕はエンジニアとしてひよっこ、、、どころかエンジニア志望の大学生に過ぎない。
iOS開発に関しても経験はここ1年ちょいくらいのものだ。

ただ唯一、現時点で僕がエンジニアとして評価して頂ける(というより面白がってもらうが正しい)点があるとすれば、それは僕がiOS開発を学んだ経緯とそのやり方にあると自己分析している。

ここでは僕がどうやってSwiftを独学で学び、iOSエンジニアへの道を歩み始めたかを書きたいと思う。
ウザい自分語りにならないように細心の注意を払いながら書こうと思うので、是非読んでやってください。

Swift、最初の一歩

僕がSwiftを勉強し始めたのは、オーストラリアにワーキングホリデーに行く約1ヶ月前くらいだったと思う。
「絶対に挫折しない iPhoneアプリ開発『超』入門」という本を買って、勉強していた。

プログラミングの基礎や考え方は大学で学んだJavaScriptで知っていたので変数やメソッドなどの概念はすんなり理解できたが、クラスやデリゲート、プロトコルなどの部分は理解するのに苦労した。

その本には「本の内容で分からないところがあれば、このメールアドレスまで是非問い合わせしてください」と書いてあったので、めちゃくちゃ聞いた
読んでググってもよく理解できなかったことはMacのメモアプリに書き殴って、それを全て質問した。

ある時、何度読んでも「おかしいな、何でそうなるんだ?」という部分があったのでそこを「〇〇の場合は、こうなるのではないですか?」と質問メールを送ったら、「本書の内容に誤りがありました。」と返ってきたこともあった。

正直、ちょっとドヤ顔したのを覚えている。

多分、著者の方も「こいつ、どんだけ聞いてくんねん。」とうっとうしく感じるくらい質問しまくったと思うが全て丁寧に対応してくださって感謝しています

エンジニアとして大切なことは全てオーストラリアのおじさん達が教えてくれた

そして、その本を丁度終わらせたくらいのタイミングでオーストラリアに移った。

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ここにも書いたがオーストラリアに移って最初はファームで朝4時起きの肉体労働をひたすらしていたのであまり勉強の時間は取れなかったが、それでもちょこちょこ開発してMusic Playerアプリを作ったりした。

ファーム仕事を終えた後は田舎での肉体労働には懲りて、メルボルンでカフェでウェイターとして働きながらおしゃれな都会生活を満喫していた。

いかに僕がおしゃれに暮らしていたかはまた今度、ブログに書こうと思ったが思い返すと大したおしゃれエピソードが無かったのでどうなるかは未定だ。

ただ僕にとってメルボルンは都会でおしゃれに暮らせることなんかより、何が嬉しかったかというとエンジニア勉強会の存在である。

カフェの街メルボルンには実は数多くのエンジニアコミュニティが存在していて、もちろんiOS Developer達のコミュニティもあった。

僕はMeetUp.comというサイトで勉強会の存在を知り、すぐに参加した。

それまで勉強会に参加したこともなかったし、更に英語でエンジニア用語を理解できるのかという不安もあった。
それにその勉強会は「皆んなで勉強しよー、あははは〜」的な感じではなく、ガチガチのプロエンジニア達がLTしていたり個人のプロジェクトに取り組んだりする内容だった。

たしかにそういう不安はあったが、今まで田舎でトマトが入ったバケツを持ち上げていただけの僕にとってiOS Developers MeetUpという響きにはワクワクが抑えきれなかった。

早速、参加してみると思っていた数倍フレンドリーな空気だった。
気軽に質問できる空気で僕も質問すると何でも丁寧に教えてくれた。

その中の1人の中国人のエンジニアの人に独学で勉強していると話すと、それならこれを観た方が良いとこの動画を勧めてもらった。

youtu.be

これはスタンフォード大学で行われているSwift、iOS開発の講義で全部で10回以上の講義シリーズになる。
その人の言いつけ通りに一時期このシリーズを毎日観て勉強していた。
独学で勉強していた僕にとって、体系的に基盤的な知識を得ることが出来、開発の際に何をするべきでないか何を考慮するべきかまで学ぶことが出来た点でこの動画はとても参考になった。

その動画を観て勉強しながら、並行して様々なアプリを開発して勉強会に参加し詰まったトコロを聞きまくった。

その勉強会にはオーストラリア人を始め、インド人、中国人、アメリカ人など様々な人種がいたが日本人はいなかった。
自然と日本のエンジニア事情は全て僕に聞いてくれるようになって皆んなと仲良くなっていった。
まあ、たいそうな話は出来なかったけど。。。

本当に色んな人にお世話になって、教えてもらった。
結果として僕にはSwiftの開発にそこまで詰まった思い出がない。


技術的にはまだまだ未熟だが、海外で働きながら勉強会に参加してプログラミングを学んだ奴は珍しいということで面白がってくれたのだろうか結構この話は面接でもウケた。
オーストラリアのおじさん達よ、ありがとう。。。

プログラミングで挫折したら、少しの間あえて離れてみると分かることがある

プログラミング未経験だったけど、やるしかない日々

僕の大学では入学すると早速、必修科目として全員がプログラミングを学ぶ。
工学部や情報系学部などでは当たり前というか、そもそもプログラミング好きな人が入学していると思うがうちの学部はそんなこともなくリベラルアーツっぽい感じで何でも学べて、文理融合の学部だった。

僕自身、大学に入るまでプログラミング経験は全く無くブラインドタッチも出来なかった。

そんな中で最初に授業で学んだのはHTMLだった。他にもコンピュータサイエンスの基礎や概念的なことも学んだ。

そしてHTMLの基本を学んでからはCSSについても授業で学んでいった。
当時は分からないなりにも、いきなり落第するわけにもいかないので必死に理解しようとしていた。

そして、更に授業はJavaScriptへと進んでいく。ここらへんでクラスのプログラミング未経験かつ興味もない層がどんどん脱落していく。
脱落といっても最終的にはHTML, CSS, JavaScriptで外部APIを叩いて何かを表示するwebアプリを作らなければ、2年生に進めないのでみんな教授や授業補佐の学生、友達を頼りながら何とか完成させる。

僕はどうだったかと言えば、意外に楽しんでいた。
最初は何も分からないところから始めたものの僕にとってプログラミングは面白かった。
授業以外でも独学で勉強していたと思う。

そんな感じで未経験勢が脱落していく中、僕はどんどん成長していた。

そして最終発表として成果物をみんなの前でプレゼンすることになるのだが、そこで僕は特定の地域を選んでそこの天気を表示し、更にその日の天気についてのTweetを表示するというwebページを発表した。

同じプログラミング未経験だった友達にすげーと褒められたことで、天才プログラマみたいな顔して発表していた。

そのまま授業が終わってもプログラミングの勉強を続け、Node.jsを独学で学びTwitterのbotを自作したりしていたのを覚えている。
当時サーバサイド、クライアントサイドみたいな概念も全然理解していなかったのでNode.jsも何が何なのかは全く分かってなかった。
JavaScriptっぽかったから勉強し始めただけだ。

その後、アメリカに1年留学することになりそこでの生活が楽しくてほとんど勉強はしていなかったのだがプログラミングへの気持ちは薄れていなかった。

帰国して復学した僕はすぐにプログラミング系のゼミに入る。そこでの出来事がプログラミング挫折のきっかけになるだが、、、

プログラミング系のゼミ入ったけど、思ってたのと違う、、、

僕がゼミに入ったのは、同じくプログラミングを勉強している学生たちと協力して皆んなで何かを作りあげて公開するという経験が出来ると思ったからだった。

しかし、実際に入ってみると、Linuxコマンドの勉強や論文を読む日々。
今考えれば、あそこで真面目に勉強して入れば得られるモノは大きかったと思うのだが当時の僕は「こんなお勉強やるために入ったんじゃねえんだよー!」という感じ。
結局、どんどんサボっていった。

そして、挙句の果てにはサボりまくっているくせに「単位欲しいんですけど、どうやったら単位はもらえますか?」的なことを聞いて先輩にブチ切れられたりしていた。
あの頃の自分のクソさ加減は言葉では言い表せない。

ただ、そこの先輩たちを好きになれなかったのも事実で「お前は服がダサい」と全然関係ない批評を受けたり、
「打ち合わせをするからゼミ室で待っとけ」と時間を伝えられずに待たされて、あまりにも来ないのでお腹が空いて近くのコンビニで晩飯を買いに行ったら丁度先輩が帰ってきてて説教されたり、
プレゼンの資料作りのために2日徹夜させられたりしていた。

そんな感じで自分的にもそこの先輩たちに対する不満が溜まっていたために学期途中でありながら、そのゼミを辞めることに。
そして、プログラマーっていうのはこういう人たちの集まりなんだと思い、自分には合わないという理由からプログラミングからも離れることになる。

でもやっぱりプログラミングに帰ってくる

その後は全くプログラミングとは関係ないゼミに入り、色んな会社でインターンしたりしながら過ごしていた。

しかし、そんな日々の中で急に「またプログミングやりたいなー」という気持ちが沸き起こってきた。

そもそも僕がプログラミングを授業が終わっても続けたことやゼミに入ったことに明確な理由はなかったと思う。
何となくワクワクするからやっているというくらいのものだ。
しかし、そういう何となくやりたいことは一度そこから離れてもまた何となくやりたくなるものなんだろう。

思えば起業に関しても大学一年生の頃に何となく起業したいという思いから、当時は「将来は起業するぜー」とホラを吹いていた。
しかし、それからしばらくするとそんなことも忘れてのほほんとした大学生活を送っていたのだが、今また起業という当時より具体的になった夢に帰ってきている。

何となくやりたいことで仮に一度は挫折したり離れたことでも、もう一度やりたいと思えるものがあるのならそれが自分の人生の軸になるものなんじゃないかと今は考えている。

それからといえば、僕はiOS開発の勉強を独学で始め最終的にiOSエンジニアとして内定を頂いている。
ここの独学から内定の過程はまたブログに書きたいと思うが、多分、当時のゼミの先輩が知れば「あんなに技術に興味が無さそうだったアイツが、、、」と今の僕に驚くことだろう。

ただ僕は興味が無かったわけではなく、当時の自分が想像していた内容と違っていた、、、や何となく先輩が嫌だった、、、みたいな理由で離れただけに過ぎなかったのだ。


よっぽど嫌いにならなければ一度離れたとしてもまたそこに帰ってくる。一度離れてみて、改めてやっぱり好きだったんだなあーと分かることもある。
だから、プログラミングに限らず何かに挫折したり辞めたくなったら、一度思い切って離れてみるのもいいんじゃないかなーと最近思う。

真面目で悩みがちな人は海外に行くと少し楽になるよって話

世界には色んな人がいる

僕は大学時代、合計で2年間海外に住んでいた。

rwkabms.hatenablog.com

ここにも書いたが、当初は海外移住を本気で考えていた。そう考えるに至った理由の一つは僕は海外にいる適当な人達が好きだったんだと思う。

海外にはホントに色んな人達がいる。日本には(少なくとも自分の周りには)いなかったような人達がいっぱいいる。

面白くてめちゃくちゃで適当な人は日本にもいるが、そういう人は基本的にTwitter界隈に生息していることが多い。

ただ外国だとそういう人を街やコミュニティ内で見かけることが出来る。やはりそんな適当な人達の絶対数が多いんだろう。


例えばアメリカの大学に通っていた頃、近くにSubwayがあった。当時、絶望的なくらい野菜を食べておらず基本的にピザしか食べてなかった僕はそろそろ死ぬなと思ったので定期的にSubwayに通って、そこでサラダを食べるようになった。
(余談だが、Subwayではサンドイッチのサラダ版を頼める。野菜と具材だけでパンがない分、大量のサラダを作ってくれる。多分、日本でも出来ると思う。)

そこの店員さんが僕が好きな適当な人達の1人だ。かれは現地の大学生でSubwayでパートタイムで働いていた。

まず彼に限らずアメリカの店員さんは基本的にフレンドリーである。ばりばり世間話を挟んでくる。
結構僕はそういう部分も好きだったので、お客さんが少ない時は彼とそのままずっと無駄話を続けていたりしたので通っているうちに自然と仲良くなった。

彼は僕がサンドイッチとジュースを買うと、いつもサービスでクッキーもくれた。この時点で日本の接客ではあり得ないことだと思う。彼はただのバイトでもちろん金を払っているわけでもなく、タダで勝手に僕にクッキーを渡してくる。まあ、何も言わずに受け取り続けていた僕も悪いのだが。

更に彼は僕が席に座って食べていると接客をやめて、僕の椅子の前に座って世間話しにくる。お客さんが待っているとめんどくさそうに接客に戻って、終わるとまた喋りにくる。日本だと店長にぶん殴られそうな暴挙だが、店長も特に何も言わず見過ごしている。

こういう適当でもあり温かくもある空気感がたまらなく僕は好きなのだ。


そしてもう1人、僕の凝り固まった価値観をぶち壊してくれたのがオーストラリアで出会った1人のおじいちゃんだ。

僕はオーストラリアで3ヶ月ほど農場でトマトやズッキーニ、ピーマンなどの収穫作業をやっていた。正確には収穫作業をやるのは女性達で僕たちの仕事は彼女らが収穫した野菜で一杯になったバケツを持ち上げてトラクターに積み込む作業だ。

これは結構きつい作業で野菜でパンパンのバケツはそこそこ重く、それを休みなく持ち上げ続けるのはかなりの力作業。最も多い日で2500個バケツを持ち上げ続けた。

朝は毎日4時起きで長い時で夕方6時まで仕事をした。

そんな農場で一緒に働いていた人達の中に1人オーストラリア人のおじいちゃんがいた。彼は御年65歳の日本だったら定年を迎えるはずのオーストラリア人だ。しかし、彼はバリバリ肉体労働で働いていた。というか僕なんかよりよっぽど元気に大声を出しながら、楽しそうに働いていた。

実は僕は彼と同じ家(農場のボスが貸している家でそこの農場で働いている人達で共同生活していた)だったのだが、そんな仕事をしながら家で筋トレをしている。控えめに言って化け物だと思った。65歳でこんなアクティブでムキムキで子供みたいな腕白な人を見たことがなかった。

僕は65歳といったらもう定年してエネルギーは使い果たし、ただただ静かに余生を過ごすモードに切り替わる年齢だと思っていたが、誰よりも大声を出し時に冗談を言って周りを笑わせながら楽しそうに働いている彼に65歳の可能性を見た。

彼は僕たち若者を監督するスーパーバイザーになる提案を農場のボスから何度も受けていたのだが、そんな仕事をすると体が衰えると言って断り続けていた。

それを聞いた時、僕はONE PIECEのガープを思い出した。ガープが現場に出続けるために大将への昇進を断り続けたようにそのおじいちゃんもスーパバイザーの昇進を断り続け、現場でバケツを持ち上げ続けていた。

年齢はただの数字という言葉があるが、それをここまで体現している人は初めて見た。彼との出会いで得たモノは僕が歳を重ねるごとに貴重な教えとして挑戦を続ける気持ちを支えてくれるだろう。


そして、最後にオーストラリアに居た頃、シェアハウスで一緒に住んで居たルームメイト達だ。

彼らからは働くことに対する自由さを教えてもらった。彼らはワーホリでオーストラリアに来た人が多く、オーストラリアではウェイターなどをしたり建設現場で働いたりしていた。

僕を含め、日本の大学生の一般的な価値観では大学を卒業するとそのまま企業に就職し働き始めるのが正しい悪いとかではなく普通だと捉えられていると思う。

ただ彼らはオーストラリアに来る前から、色んな国を旅行しながら現地で働いていたり、オーストラリアの方が稼げるからここでお金を貯めて来年に自国でその金を元手にビジネスを始めようとしていたり、単純に楽しいからオーストラリアで適当に働きながら悠々自適に暮らしていたりとみんな違っていた。

ただ1つ共通していたのはみんなとても自由にみえた

あまりにも自由だったために酒を飲みすぎて、みんなが寝ている共用の部屋で吐き散らかしたりする奴もいた。翌日、帰ってきたフランス人のルームメイトにガチギレされていた。吐いた彼が自由すぎたのか、怒っている彼があまり自由でなかったのか。


日本人はとても真面目だと思う。かなり先の将来を見据えて、今やらなければならないこと準備しておくべきことをやっておく。悪く言えば、将来のために今を犠牲にしている。どちらが良いかは分からない、もしかしたら日本人の生き方のほうが効率的なのかも知れない。

ただ彼らはそんな日本人とは逆で、今を楽しんでいたりすぐ先の未来に向かって行動していたような気がする。少なくとも老後のために動いている人はいなかったと思う。そういう生き方も良いなと素直に感じた。

僕は日本で生きてきて、将来のため老後のために頑張る人たちは何人も見てきた。そして、オーストラリアでその反対側にいる人たちにも出会うことが出来た。
どちらが正しいかどうかなんて決められないが、その両方を知ることが出来たことは僕の財産になったと思う。


日本にも外国人が増え、オンライン英会話などのサービスも整っている今、それでも海外留学や海外に一定期間住むことの意義は語学以上に大切なモノを学ぶことが出来ることだろう。

異文化交流の素晴らしさは実際にやってみないと分からない。世界には色んな人がいるということを頭では分かっていても、実際にそんな人と出会ったりそんな人たちに囲まれながら生活することはただ知っていることよりも数倍の価値がある。


真面目なことは素晴らしいことだがあまりにも凝り固まっていたり悩んでいるようなら、そんなあなたと反対側にいる適当な人達に会いに海外でも行ってみたら?と悩んでいた昔の僕に伝えたい。

外国人がYouTubeにあげているReaction動画が面白すぎる

ハマったら、ずーーーっと観ちゃう、、、

僕の最近の趣味の1つがYouTubeによくある"Reaction Mashup"と呼ばれる動画を観ること。

知らない人もいると思うが、簡単に説明すると基本的に動画内で別の動画を観ているYoutuberを観るという、言葉で説明すると非常にややこしい構図になる。

説明下手なので説明するより、僕が一番好きなReactionの1つを紹介する。

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見よ、このリアクションの大きさを。ONE PIECEでエースの父親が海賊王ゴールド・ロジャーだったことが判明するシーンだが、ここまで分かりやすく驚き、興奮してくれると観ているこっちまで嬉しくなる。

「どうだい、尾田栄一郎はすごいだろう?」という気分になってくる。一度観たことある映画を友達と観ている時に友達の反応を横目でチラチラ見ながら反応を楽しんでいる時の気持ちが味わえる。

真ん中のおじさんなんて驚きすぎて板が頭に倒れてきている。しかも二回も。
ちなみにこのおじさん(Khanさん)は名物Reactorでとにかくリアクションが大きい。全てのReactorの中でも間違いなくNo.1だ。


あと、もう1つ好きなやつ。

www.youtube.com

シャンクスが赤犬の攻撃からコビーを守るシーンだが、これも見事にみんな驚きと興奮が入り混じっている。これもシャンクスが来ることを知っている立場からすると、このシーンが待ち遠しかった。「彼らはどれくらい驚いてくれるのだろう。。(ワクワク)」

余談だが、赤犬は彼ら彼女らReactorからどちゃくそ嫌われている。「そんな嫌う?」ってレベルで嫌われているので、赤犬の渋さがそこそこ好きな僕からしたらちょっと悲しい部分もある。Reactorは割と全部素直に受け止める傾向がある気がするが、それは度々、行間をあまり伝えきれていないなーと感じる字幕の英訳のせいでもある気がする。


止まらなくなってきたが、あと1つ好きなやつ。

www.youtube.com

銀魂も海外でかなり人気らしい。銀魂は内輪ネタというか日本の他アニメなどのパロディのオンパレードだったり、表現も独特だったり字幕で伝えきれていない部分も多いので悔しくもあるのだが、それでも死ぬほど受けている。

それを観ながら、僕は「空知先生、天才だろ?」とほくそ笑んでいる。
他にもご存知の通り銀魂には感動シーンも多いが、そこでも彼ら彼女らは死ぬほど泣いてくれる。「泣いてくれてありがとう、、、」とつぶやきながら、僕も画面の前で1人泣いている。はたから見たら、かなり気持ち悪いと思う。


やばい止まらない、紹介したいやつが溢れて止まってくれない。

www.youtube.com

スマブラの発売決定に対するReactionだが、この喜びようはすごい。こういう感情を素直に表現できるところ羨ましいなーと思ったり。
これを観た、任天堂のスマブラ開発メンバー達はどれほど嬉しかったんだろう。自分たちが作ったものでこれほど喜んでくれるなんて。

スプラトゥーンのキャラクターの目がスマブラのロゴになっているという演出は良すぎるが、その瞬間に飛び上がって喜んでいる彼らも最高だ。
何かと斜に構えがちな自分ももう少し感情を表に出してみようかなと思った。

色々紹介したが、こういうReaction動画は他にもYouTubeに死ぬほどあるため観始めて気づいたら1時間経ってるということもザラにある。
今もOne PieceのReaction動画をアップしているお気に入りのYouTuberをSubscribeして、毎日アップされる動画を観るのが日課となっている。

もし同じようにReactionビデオが好きな方がいれば、おすすめの動画を教えてほしいです。きっと教えてくれれば、スマブラの時の彼らくらい飛び上がって喜びますから。。。

落ち込んでいる時や辛い時は「竜馬がゆく」を読め!

幕末の志士達に比べたら、、、理論

僕が人生で初めて読んだ長編小説は司馬遼太郎著「竜馬がゆく」だ。中学時代に父親に勧められて読んだのがきっかけでその父親はおじいちゃんに勧められて読んだらしい。

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なぜかはよく分からないが代々「竜馬がゆく」を読み継いでいるので装丁はボロボロだ。もし自分に子供が出来たら、それとなく勧めようとは思う。

そして、人生の節目で読み返し今までで少なくとも通算5回は読んでいるのではないだろうか。

この本は自分が絶好調の時はそもそも読む気も起こらないが、落ち込んだ時や辛い時はこの幕末の世界に逃げ込みたくなる。竜馬や幕末の志士達の壮絶な人生を感じることで自分の悩みがちっぽけに感じるどころか、むしろより壮絶な人生を自分から迎え入れたくなるくらいだ。

そして読み終わると小説の中の竜馬が自分に憑依して、若干竜馬っぽい言動や行動をしてしまう。そして後で自分を振り返って、ダサすぎて叫びそうになる。この副作用だけは困ったものだ。

やっぱり幕末の志士達が日本を憂い日本のために命を顧みずに行動する様子や彼らの異常なエネルギーを感じると自分が大学、就職などでの悩みなど小さいことに囚われすぎていることに恥ずかしさすら覚える。

吉田松陰は日本の外、外国を知りたいという知的好奇心に突き動かされ黒船に乗船しようとして小舟で黒船に近づき、捕らえられて後に処刑された。

寺田屋事件で暴発しようとしていた薩摩藩の志士達が、藩主に彼らを止めるよう命じられた同じ薩摩藩の志士達の制止を聞かずに斬り合いとなり殺される時、自分を斬った相手に「自分は死ぬがまだお前達がいる。日本のことは頼んだぞ。」と言って死んだ。

坂本竜馬は天下に乗り出し日本を改革するために自分の命だけでなく、親族全員に非常に重い罪がかかる脱藩を犯して浪人となった。

彼らは自分達の命には何の重みもないように簡単に投げ出してしまうが、実際は命を軽く見ていたのではなく自分の命を懸けてでもやるべきことに壮絶な覚悟とエネルギーで立ち向かっていたんだと思う。

そういった侍の覚悟を知ると、「幕末の志士達に比べたらこんなこと屁でもない」という気持ちになる。

それに悩みだけではなく、人間関係においても見習う点が多い。

僕は性格的に過度に目上の人に気を使ってしまう(というよりほとんど恐れに近い)という悩みを持っていたのだが、そんな僕を変えてくれた1つ好きな逸話がある。

土佐藩の参政、吉田東洋に関する話だ。

東洋が藩主や藩主の親族達の酒宴に参加した時に、藩主の親族の1人が悪酔いして東洋の同僚を罵倒したり頭を叩いたりと絡み始めた。しかし、絡まれている同僚は相手が藩主の親族なのでただただ顔を伏せていた。

そして同じように東洋に対してもたれかかりながら、「何の役にも立たぬ、雁首よ。」と言った瞬間、東洋はその親族を投げ飛ばし馬乗りになり、相手が泣いて謝るまで殴りつけたという。

これを初めて読んだ時、子供ながらに僕は誇り高く生きることのカッコよさを学んだ。

実際、東洋はその事件後、罰せられることになるのだが自分の誇りを傷つけられたら全力で反抗する姿に男とはこうあるべきだなと感じた。

当時、先輩など目上の人に恐縮しまくり、ペコペコに次ぐペコペコを決めていた僕にとって自分があるべき姿を考えさせられるきっかけになった話である。

もちろん「竜馬がゆく」は司馬遼太郎自身がフィクションであることを強調するためにあえて「龍馬」ではなく「竜馬」としているため、これらの話にも脚色が入っている可能性が高いが少なくとも僕にとっての幕末の志士はこの小説の中の彼らを指す。

この小説の中で竜馬が発する名言、
「世の人は我を何とも言わば言え。我が成すことは我のみぞ知る。」
「恥ということを打ち捨てて、この世のことは成るべし。」
「世に生を得るは、事を成すにあり。」
これらの言葉は自分の胸の中に深く刻まれている。

これからも人生の節目節目でこの小説を頼りながら、生きていくことになると思う。そして僕が竜馬っぽいことを口走っていたり竜馬っぽい行動をしていたら、それは僕がこの小説を読み終わったか読んでいる最中なんで、そっとしていてください。。。