落ち込んでいる時や辛い時は「竜馬がゆく」を読め!
幕末の志士達に比べたら、、、理論
僕が人生で初めて読んだ長編小説は司馬遼太郎著「竜馬がゆく」だ。中学時代に父親に勧められて読んだのがきっかけでその父親はおじいちゃんに勧められて読んだらしい。
なぜかはよく分からないが代々「竜馬がゆく」を読み継いでいるので装丁はボロボロだ。もし自分に子供が出来たら、それとなく勧めようとは思う。
そして、人生の節目で読み返し今までで少なくとも通算5回は読んでいるのではないだろうか。
この本は自分が絶好調の時はそもそも読む気も起こらないが、落ち込んだ時や辛い時はこの幕末の世界に逃げ込みたくなる。竜馬や幕末の志士達の壮絶な人生を感じることで自分の悩みがちっぽけに感じるどころか、むしろより壮絶な人生を自分から迎え入れたくなるくらいだ。
そして読み終わると小説の中の竜馬が自分に憑依して、若干竜馬っぽい言動や行動をしてしまう。そして後で自分を振り返って、ダサすぎて叫びそうになる。この副作用だけは困ったものだ。
やっぱり幕末の志士達が日本を憂い日本のために命を顧みずに行動する様子や彼らの異常なエネルギーを感じると自分が大学、就職などでの悩みなど小さいことに囚われすぎていることに恥ずかしさすら覚える。
吉田松陰は日本の外、外国を知りたいという知的好奇心に突き動かされ黒船に乗船しようとして小舟で黒船に近づき、捕らえられて後に処刑された。
寺田屋事件で暴発しようとしていた薩摩藩の志士達が、藩主に彼らを止めるよう命じられた同じ薩摩藩の志士達の制止を聞かずに斬り合いとなり殺される時、自分を斬った相手に「自分は死ぬがまだお前達がいる。日本のことは頼んだぞ。」と言って死んだ。
坂本竜馬は天下に乗り出し日本を改革するために自分の命だけでなく、親族全員に非常に重い罪がかかる脱藩を犯して浪人となった。
彼らは自分達の命には何の重みもないように簡単に投げ出してしまうが、実際は命を軽く見ていたのではなく自分の命を懸けてでもやるべきことに壮絶な覚悟とエネルギーで立ち向かっていたんだと思う。
そういった侍の覚悟を知ると、「幕末の志士達に比べたらこんなこと屁でもない」という気持ちになる。
それに悩みだけではなく、人間関係においても見習う点が多い。
僕は性格的に過度に目上の人に気を使ってしまう(というよりほとんど恐れに近い)という悩みを持っていたのだが、そんな僕を変えてくれた1つ好きな逸話がある。
土佐藩の参政、吉田東洋に関する話だ。
東洋が藩主や藩主の親族達の酒宴に参加した時に、藩主の親族の1人が悪酔いして東洋の同僚を罵倒したり頭を叩いたりと絡み始めた。しかし、絡まれている同僚は相手が藩主の親族なのでただただ顔を伏せていた。
そして同じように東洋に対してもたれかかりながら、「何の役にも立たぬ、雁首よ。」と言った瞬間、東洋はその親族を投げ飛ばし馬乗りになり、相手が泣いて謝るまで殴りつけたという。
これを初めて読んだ時、子供ながらに僕は誇り高く生きることのカッコよさを学んだ。
実際、東洋はその事件後、罰せられることになるのだが自分の誇りを傷つけられたら全力で反抗する姿に男とはこうあるべきだなと感じた。
当時、先輩など目上の人に恐縮しまくり、ペコペコに次ぐペコペコを決めていた僕にとって自分があるべき姿を考えさせられるきっかけになった話である。
もちろん「竜馬がゆく」は司馬遼太郎自身がフィクションであることを強調するためにあえて「龍馬」ではなく「竜馬」としているため、これらの話にも脚色が入っている可能性が高いが少なくとも僕にとっての幕末の志士はこの小説の中の彼らを指す。
この小説の中で竜馬が発する名言、
「世の人は我を何とも言わば言え。我が成すことは我のみぞ知る。」
「恥ということを打ち捨てて、この世のことは成るべし。」
「世に生を得るは、事を成すにあり。」
これらの言葉は自分の胸の中に深く刻まれている。
これからも人生の節目節目でこの小説を頼りながら、生きていくことになると思う。そして僕が竜馬っぽいことを口走っていたり竜馬っぽい行動をしていたら、それは僕がこの小説を読み終わったか読んでいる最中なんで、そっとしていてください。。。